横浜地方裁判所 平成5年(ワ)370号 判決 1994年7月19日
原告
稲垣米子
ほか二名
被告
朝野運送株式会社
ほか一名
主文
一 原告らの請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は原告らの負担とする。
事実
第一当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告らは、各自、原告稲垣米子に対し、二二三五万六八四一円及びうち二一三五万六八四一円に対する平成三年一〇月一五日から支払済みまで年五分の割合による金員を、原告稲垣裕志及び同中島敦子に対し、各八四〇万五〇一〇円及びうち七九〇万五〇一〇円に対する平成三年一〇月一五日から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告らの負担とする。
3 仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する被告らの答弁
1 原告らの請求をいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告らの負担とする。
第二当事者の主張
一 請求原因
1 事故の発生(以下「本件事故」という。)
(一) 日時 平成二年二月一九日午後四時ころ
(二) 場所 神奈川県相模原市二本松一丁目一〇番地先交差点(以下「本件事故現場」という。)
(三) 加害車 大型貨物自動車(相模一一か九五五六)
運転者 被告藤井広士
(四) 被害車 普通乗用自動車(相模五三ひ六一五)
運転者 訴外稲垣孝
(五) 事故態様 加害車は、本件事故現場の交差点を、下九沢方面から橋本方面に向かつて右折を開始したが、対向車の進行を妨げる形となつたためバツクした。その際、被告藤井広士は、後方の安全を確認することなく急に加害車をバツクさせたため、加害車の後部がその後ろに続いていた被害車の右側前部に衝突した(以下「本件衝突」という。)。その後、被告藤井広士は、右衝突を知りながらそのまま逃走した。
2 責任原因
(一) 被告藤井広士の責任
被告藤井広士は、後方の安全を確認することなく加害車をバツクさせた過失により、加害車を被害車に衝突させたので、民法七〇九条に基づき、原告らに対し本件事故による後記損害を賠償する責任がある。
(二) 被告朝野運送株式会社の責任
被告朝野運送株式会社は、加害車の保有者であり、自己のために運行の用に供していた者であるから、自動車損害賠償保障法(以下「自賠法」という。)三条に基づき、原告らに対し本件事故による後記損害を賠償する責任がある。
3 傷病の発症及び死亡に至る経緯・因果関係
(一) 稲垣孝は、本件衝突の際、加害車に押し漬される恐怖を感じたが、逃げようにも逃げられず、恐怖感から血圧が上昇し、脳出血を起こした。前記1(五)のとおり加害車が逃走したので、警笛を鳴らしながら約一キロメートル追跡した後、追い詰めたところで急に気分が不快となり、しやがみ込み、口もきけない状態となつた。
(二) 真島医院に運ばれ診察を受けた後、同日、救急車で相模原協同病院に搬送され、脳出血と診断されて直ちに血腫除去術を受た。しかし、その後、リハビリのため多摩丘陵病院に入院中、再出血を起こし、昏睡状態が続き、平成三年一〇月一五日、死亡した。
(三) 死亡の原因は脳出血であり、脳出血の原因は本件衝突及びその後の加害車の逃走にあるから、本件事故と稲垣孝の右傷病及び死亡との間には相当因果関係がある。
稲垣孝が、本件事故前に、医師から脳梗塞と診断されたことがあるとしても、脳梗塞と脳出血とは因果関係がない。また、稲垣孝は、高血圧症であつたが、高血圧症であると必ず脳出血になるという関係はない。
4 損害
(一) 稲垣孝に生じた傷病による損害
(1) 治療費・文書料 一四万九一八〇円
なお、右の他は、労働者災害補償保険法(以下「労災保険法」という。)に基づく療養給付として支給を受けた。
(2) 入院雑費 六七万九二〇〇円
一日当たり一二〇〇円、平成二年二月一九日から五六六日分
(3) 付添看護費 七万二六三円
職業付添人に対し二二万七四〇九円を支払つたが、看護料について療養給付として一五万七一四六円の支給を受けたので、これを控除すると七万二六三円となる。
(4) おむつ代 八万一四四九円
(5) 交通費 四四万八一六〇円
(6) 車椅子代 一万一〇〇〇円
車椅子代金一〇万四三円から公費負担分八万九〇四三円を差し引くと、一万一〇〇〇円となる。
(7) 家屋改造費等 一一万五四一二円
総費用二三万五四八四円から値引分五四八四円及び助成金一一万四五八八円を差し引くと、、一一万五四一二円となる。
(8) 入院慰謝料 三三三万円
平成二年二月一九日から平成三年一〇月一五日まで入院を余儀なくされたので、その慰謝料は、三三三万円が相当である。
(9) 休業損害 三一〇万三八三二円
平成元年度の年収は三七四万二一〇〇円であるが、本件事故により平成二年二月二〇日から平成三年一〇月一五日まで六〇三日間休業を余儀なくされたので、休業損害額は六一八万二一五四円である。しかし、労災保険法に基づく休業給付として三〇七万八三二二円(損害の填補とは認められない特別支給金を除く。)の支給を受けたので、これを控除すると三一〇万三八三二円となる。
(10) 損害の填補(自賠責保険)四六万五三九三円
傷病による損害分について、自賠責保険金四六万五三九三円の支払を受けた。
(11) 既払額控除後の損害 七五二万三一〇三円
(1)ないし(9)の合計七九八万八四九六円から(10)の既払額を控除すると、七五二万三一〇三円となる。
(二) 稲垣孝に生じた死亡による損害
(1) 逸失利益 一一三九万六九四〇円
稲垣孝は死亡時六一歳(昭和五年五月一三日生)であり、六七歳までの六年間は稼働可能であつたから、本件事故によつて死亡しなければなお六年間は収入を得ることができたはずである。そこで、平成元年度の年収額三七四万二一〇〇円を基礎として、生活費控除率を四〇パーセント、中間利息の控除をライプニツツ式により死亡による逸失利益を算定すると、次の計算式のとおり一一三九万六九四〇円となる。
三七四万二一〇〇×(一-〇・四)×五・〇七六=一一三九万六九四〇
(2) 慰謝料 二四〇〇万円
死亡による慰謝料は、二四〇〇万円が相当である。
(3) 葬儀費用 一二〇万円
(4) 損害の填補(自賠責保険) 一二五〇万円
死亡による損害分について、自賠責保険金一二五〇万円の支払を受けた。
(5) 既払額控除後の損害 二四〇九万六九四〇円
(1)ないし(3)の合計三六五九万六九四〇円から(4)の既払額を控除すると、二四〇九万六九四〇円となる。
(三) 相続
原告稲垣米子は、稲垣孝の妻、原告稲垣裕志及び同中島敦子は、いずれも稲垣孝の子であり、原告らは稲垣孝の死亡により同人の右(一)及び(二)の損害賠償請求権を、原告稲垣米子においては二分の一、原告稲垣裕志及び同中島敦子においては各四分の一の割合で相続した。
したがつて、原告稲垣米子が相続した債権額は一五八一万二一円(円未満、切捨て)、原告稲垣裕志及び同中島敦子が相続した債権額は各七九〇万五〇一〇円(円未満、切捨て)となる。
(四) 原告稲垣米子の付添看護費
原告稲垣米子は、本件事故前、株式会社相武カントリークラブに勤務し、平成元年に三四九万六六八〇円(一日当たり九五八〇円)の収入を得ていたが、稲垣孝の付添看護のため休業及び退職を余儀なくされた。そのため、退職日の平成二年三月一五日から稲垣孝が死亡した平成三年一〇月一五日まで、次の計算式のとおり五七九日分の収入相当額五五四万六八二〇円の損害を被つた。
九五八〇×五七九=五五四万六八二〇
(五) 弁護士費用
原告ら訴訟代理人に対する弁護士費用は、原告稲垣米子について着手金五〇万円及び成功報酬額五〇万円の合計一〇〇万円、原告稲垣裕志及び同中島敦子についてそれぞれ着手金二五万円及び成功報酬額二五万円の合計五〇万円である。
(六) 以上によれば、原告稲垣米子の損害賠償請求額は二二三五万六八四一円、原告稲垣裕志及び同中島敦子の損害賠償請求額は各八四〇万五〇一〇円となる。
5 よつて、被告らに対し、本件事故に基づく損害賠償として、原告稲垣米子は、二二三五万六八四一円及びうち二一三五万六八四一円に対する本件事故の日の後である平成三年一〇月一五日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を、原告稲垣裕志及び同中島敦子は、各八四〇万五〇一〇円及びうち七九〇万五〇一〇円に対する本件事故の日の後である平成三年一〇月一五日から各支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
二 請求原因に対する認否・主張
1 請求原因1(一)ないし(四)は認める。
同(五)は、加害車が本件事故現場の交差点を下九沢方面から橋本方面に向かつて右折を開始したが対向車の進行を妨げる形となつたことからバツクしたこと、及び加害車の後部がその後ろに続いていた被害車の右側前部に衝突したことは認め、被告藤井広士が後方の安全を確認することなく急に加害車をバツクさせたこと、及び被告藤井広士が本件衝突を知りながらそのまま逃走したことは否認する。
2 請求原因2(一)は、被告藤井広士が後方の安全を確認することなく加害車をバツクさせたことは否認する。
同(二)は、被告朝野運送株式会社が加害車の保有者であり、自己のために運行の用に供していた者であることは認める。
3 請求原因3(一)は、稲垣孝が急に気分不快となつてしやがみ込み、口もきけない状態となつたことは認め、その余は否認する。
同(二)は認める。
同(三)は、因果関係を争う。後記三のとおり、本件事故と稲垣孝の傷病及び死亡とは因果関係がない。
4(一) 請求原因4(一)(稲垣孝に生じた傷害による損害)について
(1)、(2)、(4)ないし(8)及び(11)は争う。(3)は、看護料について療養給付一五万七一四六円の支給を受けたことは認め、その余は争う。(9)(10)は認める。
稲垣孝は、労災保険法に基づく療養給付として、治療費について一四五三万三四四円を、装具費について一二万八三〇円を支給されている。したがつて、稲垣孝は、同法に基づき合計一七八八万六六四二円の支給を受けていることになるので、総損害額からこれを控除すべきである。
(二) 同(二)(稲垣孝に生じた死亡による損害)について
(1)は、稲垣孝の平成元年度の年収が三七四万二一〇〇円であることは認め、その余は争う。(2)(3)(5)は争う。(4)は認める。
(三) 同(三)は、原告らの身分関係は不知、原告らが被告らに対し損害賠償請求権を有することは争う。同(四)ないし(六)は争う。
三 被告らの主張・抗弁
1 本件事故と稲垣孝の傷病及び死亡とは因果関係がない。
本件衝突は、人身事故が惹起される程度のものではなく、わずかに被害車の右側前照灯を破損させたにすぎない。加害車は低速度でバツクしたのであるから、稲垣孝が恐怖感を覚えることはなかつたはずである。
稲垣孝は、本件事故前から、高血圧症及び脳梗塞のため真島医院で通院治療を受けていた。本件事故当日に発症した脳出血は、右既往症によるものであり、平成三年五月二〇日の再度の脳出血も右既往症が悪化した結果である。仮に、本件事故日に発症した脳出血の原因が、稲垣孝が本件衝突後興奮して加害車を追跡したことにあるとしても、それは高血圧症及び脳梗塞を患つていた稲垣孝の身体的資質に由来するものというべきである。したがつて、稲垣孝の傷病及び死亡と本件事故との間には相当因果関係はない。
2 過失相殺及び損害の填補(抗弁)
加害車は、後部の後退灯を点滅させ断続音による警告音を発しながらバツクしたのであり、稲垣孝は、加害車がバツクしてくることを予見・認識し得たはずであるから、被害車をバツクさせて加害車との衝突を回避すべき義務があつたのにこれを怠つたものというべきである。また、稲垣孝の傷病及び死亡は、本件事故と相当因果関係があるとしても、その主たる原因は前記のような身体的資質にある。さらには、本件衝突の衝撃も身体的には全く影響を与えない程度のものであつた。これらの事情からすると、本件事故による稲垣孝らの損害について被告らがそのすべての責任を負わなければならないわれはなく、被告らの責任負担割合は三割を超えないものというべきである。そうすると、稲垣孝及び原告らの被つた総損害の約四割六分は、既に労災保険法に基づく給付及び自賠責保険により填補されているので、被告らは原告らに対し損害賠償債務を負つていないことになる。
四 被告らの抗弁に対する認否
稲垣孝に過失等があり、被告らの責任負担割合が三割を超えないとの主張は争う。稲垣孝は、加害車がバツクすることを予想し得ず、また、衝突前に被害車をバツクさせる余裕はなかつたから、同人に本件衝突回避義務の懈怠はない。
第三証拠
記録中の書証目録・証人等目録のとおりである。
理由
一 請求原因1(事故の発生)について
請求原因1のうち、(一)ないし(四)の事実は、当事者間に争いがない。
そこで、本件事故態様について判断するに、同(五)(事故態様)の事実中加害車が本件事故現場の交差点を下九沢方面から橋本方面に向かつて右折を開始したが対向車の進行を妨げる形となつたことからバツクしたこと、及び加害車の後部がその後ろに続いていた被害車の右側前部に衝突したことは当事者間に争いがなく、右争いがない事実に、成立に争いのない甲第九号証、第三七号証、平成二年二月二〇日ころ被害車を撮影した写真であることに争いのない甲第六号証の一・二、平成四年一二月一三日加害車と同型のトラツクを撮影した写真であることに争いのない甲第七号証の一ないし五、平成四年一二月一三日本件事故現場付近を撮影した写真であることに争いのない甲第一〇号証の一・二及び第一一号証の一ないし六、原告稲垣米子及び被告藤井広士各本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨を総合すると、次の事実が認められる。
1 本件事故現場の場所的状況は、概ね、別紙図面のとおりであり、下九沢方面から二本松交差点方面へ通じる車道幅員七・一五メートルの片側一車線の道路(甲道路)と、川尻方面から橋本方面へ通じる車道幅員七メートルの片側一車線の道路(乙道路)とが十字路状に交わる交差点で、いずれの道路からの進入についても信号機による交通整理が行われていた。
2 加害車(長さ約一二メートル、幅約二・五メートル、高さ約四メートル、最大積載量九二五〇キログラムのバン型の大型トラツク)は、下九沢方面から右交差点を右折して橋本方面へ向かうため、甲道路を下九沢方面から右交差点に差しかかり、前方信号機が青色を表示していたことからそのまま横断歩道の辺りまで進み、右折車及び直進車の先頭で、右折の方向指示器を点灯させながら、対向車が途切れて右折できるようになるのを待つ状態で停止した。その際、加害車の右折方向の乙道路には、加害車とほぼ同じ大きさのトラツクが、加害車とは逆に乙道路から甲道路の下九沢方面へ左折しようとして停止線の位置の辺りに停止して信号機の表示が変わるのを待つていた。一方、被害車は、甲道路を下九沢方面から二本松交差点方面へ直進しようとして右交差点に差しかかつたが、加害車が進路前方をふさぐ恰好で停止していたため、そのすぐ後ろに停止した。
3 右のような状態で、加害車は右折の機会を窺つていたが、これを果たせないでいるうちに前方信号機が赤色の表示に変わつてしまい、左折しようとしている前記トラツクの左折を妨害し、さらには、対向車線を二本松交差点方面から下九沢方面へ向かつて直進してきたタンプカーの進行を妨害する形となつた。そのため、被告藤井広士は、加害車を少なくとも四メートル余りバツクさせたが、その際、加害車の後部が被害車の前部右側に衝突し、被害車の右側前照灯が破損した。右のバツクに当たつて、被告藤井広士は、運転席側の窓から首を出し、十数メートル余り後方に赤い車が停止しているのは認めたものの、それ以上には加害車の後ろの状況を確認しようとはしなかつたため、すぐ後ろに停止していた被害車の存在には全く気がつかなかつた。一方、被害車を運転しいた稲垣孝は、右折の方向指示器を点灯していた加害車が突然バツクしてきたことに驚愕し、警音器を鳴らしたほかは何らの措置を講ずることもできなかつた。
4 そして、被告藤井広士は、右衝突に気づかないまま加害車を発進させ、前記交差点を右折して目的地である約一キロメートル先の大和製缶の工場敷地に赴いた。一方、稲垣孝は、当て逃げされたと考えて腹を立て、加害車を追跡して右工場敷地に被害車を乗り付けた。
以上のとおり認められる、この認定を動かすに足りる証拠はない。
二 請求原因2(責任原因)について
1 被告藤井広士の責任
前記認定の本件事故の態様によれば、被告藤井広士は、後方の安全を十分に確認することなく加害車をバツクさせた過失が認められるので、民法七〇九条に基づき、本件事故により発生した損害を賠償する義務がある。
2 被告朝野運送株式会社の責任
被告朝野運送株式会社が加害車の保有者であり自己のために運行の用に供していた者であることは当事者間に争いがないから、右被告は、自賠法三条に基づき、本件事故により発生した損害を賠償する義務がある。
三 請求原因3(傷病の発症及び死亡に至る経緯・因果関係)について
1 まず、傷病の発症及び死亡に至る経緯をみるに、弁論の全趣旨により成立を認める甲第一三号証、第一四号証、第一八号証、第一九号証、乙第二号証、第四号証、第五号証、第七号証、成立に争いのない甲第一五ないし第一七号証、第二〇号証、第二一号証、原告稲垣米子及び被告藤井広士各本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨を総合すると、次の事実が認められる。
(一) 稲垣孝は、当て逃げされたものと思つて腹を立て、前記工場敷地内まで加害車を追跡した後、工場の関係者や被告藤井広士らに対し、憤激した様子で本件衝突の責任を追及するなどしていたが、そのうちろれつが回らなくなるとともに、立つていることもできない状態となつた。そのため、工場の関係者によつて、本件事故日の平成二年二月一九日午後四時三〇分ころ、真島医院へ運ばれた。
(二) 真島医院では、脳出血・高血圧症(血圧一九〇/一〇〇)と診断され、直ちに救急車で相模原協同病院に搬送された。右病院では、脳内出血(高血圧症・右被殻視床出血)と診断され、その日のうちに血腫除去術が施行された。その後、同年六月二〇日まで、右病院に入院したが、左上下肢に重度の麻痺が残つた。そのため、同月二二日、リハビリ目的で七沢リハビリテーシヨン病院脳血管センターへ入院して訓練等を受けたが効果が上がらず、同年一一月三〇日退院した。
(三) その後、相模原協同病院に三日間通院した後、平成三年一月八日、リハビリのため、多摩丘陵病院へ入院していたところ、同年五月二〇日、前記脳出血の部位とは反対側の左視床出血を起こして意識消失となり、呼吸状態も悪化したため、翌二一日、気管切開術が施行された。以後、四肢の麻痺が続き、意識はわずかに開眼するのみで周囲の状況判断はできなかつた。そして、同年八月ころには一時軽快したものの、同年一〇月一五日、体力及び免疫力の低下により肺炎・菌血症を起こしてシヨツク状態となり、血圧低下・呼吸停止となつて死亡した。
以上のとおり認められる。この認定に反する証拠はない。
2 そこで、右傷病の発症及び死亡と本件事故との間に相当因果関係があるか否かを検討する。
(一) 前掲甲第一三号証(真島医院・真島医師作成の診断書)、甲第一四号証(相模原協同病院・近藤医師作成の診断書)、掲甲第一五号証(相模原協同病院・守谷医師作成の診断書)、甲三四号証(真島医師作成の意見書)、乙第一号証の一(真島医師作成の意見書)、弁論の全趣旨により成立を認める乙第三号証の一ないし三(近藤医師作成の意見書)によれば、右各医師は、初回の脳出血(脳内出血)について、「交通事故により異常に興奮し、精神的肉体的負荷により血圧が上昇し、脳内出血を起こした可能性はある」、あるいは「交通事故による肉体的・精神的要因と今回の発症との間には因果関係が強く存在するものと考えられる」などとしたうえ、いずれもそれが医学的にみて本件事故に起因するものであることを是認する意見を述べていることが認められ、さらに、前掲甲第一八号証、第一九号証及び成立に争いのない甲第二二号証(いずれも多摩丘陵病院・野瀬医師作成の診断書)によれば、右医師は、「第一回目の脳出血がおこつてから全脳的に血管動態の変化がおこり、他部位の血管の一部に血圧が過度にかかり、二回目の脳出血をおこしたものとみられる。初回の脳出血と再出血は一連の経過とみられる」、「死亡の原因は脳出血であり、脳出血の原因は事故とその後の加害者の逃走にある」などとして、死亡が本件事故に起因する旨診断していることが認められる。
そして、以上の意見・診断の医学的相当性を疑わせるべき具体的証拠は全く存しない。
(二) 右の認定・説示に加えて、前記一で認定した事故の発生状況とその後の経過によつて窺われる稲垣孝に生じたであろう驚愕・恐怖、そして咄嗟の憤りの念をも勘案するならば、同人の傷病の発症・死亡と本件事故との間には相当因果関係があるものと認めるのが相当である。被告らは、本件衝突は人身事故が惹起される程度のものではなく、わずかに被害車の右側前照灯を破損させたにすぎないと主張するところ、たしかに、物理的衝撃度という点ではさほどのものではなかつたと思われるが、ことは心因的側面に係る問題であり、そのような事情は右の判断を動かすものとはいえない。また、被告らは、加害車は低速度でバツクしたのであるから、稲垣孝が恐怖感を覚えることはなかつたはずであるとも主張するが、交差点で、右折の合図を出していた高さ約四メートルのバン型大型トラツクのすぐ後ろに停止していた普通乗用自動車の運転者にとつて、前車が突然後退を始め、目の前に迫つてくることに恐怖を覚えるであろうことは見易い道理であり、右主張は採用の限りではない。
(三) ところで、被告らは、稲垣孝には高血圧症及び脳梗塞の既往症があつたとし、それを理由に同人の傷病の発症・死亡と本件事故との間には相当因果関係がない旨主張するところ、前掲甲第一三号証、弁論の全趣旨により成立を認める甲第三四号証、乙第一号証の一・二及び原告稲垣米子本人尋問の結果によると、稲垣孝は、本件事故当時は、降圧剤等の投与によつて一応軽快した状態になつてはいたものの、昭和五四年ころから高血圧症のため真島医院等で通院治療を受けており、平成元年一一月ころには、左下肢に軽度のしびれ感・運動障害が生じて、同医院で脳梗塞の疑いがあると診断されていたことが認められる。右事実によれば、稲垣孝に被告ら主張の既往症が存したことは明らかであるが、前記(一)認定の各医師の意見・診断に鑑みると、右既往症の存在は、後記のように過失相殺の場面でこれを斟酌すべきことはともかく、稲垣孝の傷病の発症・死亡と本件事故との間に相当因果関係があることを動かすまでには至らないと解するのが相当である。
四 請求原因4(損害)について
1 稲垣孝に生じた傷病による損害
(一) 治療費・文書料 一四六七万九五二四円
成立に争いのない甲第二三号証の一ないし三六によれば、稲垣孝は、本件事故による治療費・文書料として原告ら主張の一四万九一八〇円を支出したことが認められるが、成立に争いのない乙第九号証及び弁論の全趣旨によれば、稲垣孝は、右の他に本件事故による治療費について労災保険法に基づく療養給付として一四五三万三四四円の支給を受けたことが認められるので、治療費・文書料についての総損害額は一四六七万九五二四円となる。
(二) 入院雑費 六七万九二〇〇円
前記三1(二)で認定したとおり、稲垣孝は、本件事故により平成二年二月一九日から平成三年一〇月一五日まで延べ五六六日間入院したので、一日当たり一二〇〇円、合計六七万九二〇〇円の入院雑費を要したと認めるのが相当である。
(三) 付添看護費 二二万七四〇九円
成立の争いのない甲第二四号証の一ないし五及び弁論の全趣旨によれば、稲垣孝は、その容態が悪化した平成三年九月から同年一〇月一四日までの間、職業付添人に対する付添看護費として二二万七四〇九円の出捐を余儀なくされたことが認められる。
(四) おむつ代 八万一四四九円
成立の争いのない甲第二五号証の一ないし三二によれば、本件事故により、おむつ代として八万一四四九円を要したことが認められ、右費用については、前記(二)の入院雑費とは別に本件事故と相当因果関係にある損害と認めるのが相当である。
(五) 交通費 四四万八一六〇円
弁論の全趣旨により成立を認める甲二六号証の一・六、第三五号証、成立に争いのない甲二六号証の二ないし五及び原告稲垣米子本人尋問の結果によれば、稲垣孝の妻である原告稲垣米子は、稲垣孝の入院期間中ほぼ毎日のように付添・介助のため通院することを余儀なくされ、稲垣孝自身の通院のための交通費と合わせて合計四四万八一六〇円の交通費を要したことが認められる。
(六) 車椅子代 〇円
成立に争いのない甲第二七号証及び原告稲垣米子本人尋問の結果によれば、車椅子代一〇万四三円はすべて相模原市等から支給されていることが認められるので、これについての損害は発生していないものと認めるのが相当である。
(七) 家屋改造費等 一一万五四一二円
成立に争いのない甲第二八号証の一ないし七及び原告稲垣裕志が平成六年五月自宅を撮影した写真であることに争いのない甲第三九号証の二ないし四によれば、本件事故により、家屋改造費等として総費用二三万五四八四円から値引分五四八四円及び助成金一一万四五八八円を控除した一一万五四一二円を要したことが認められる。
(八) 入院慰謝料 三三〇万円
前記三1(二)で認定した稲垣孝の入院期間・入院状況及び発症した脳出血の程度等を勘案すると、稲垣孝が傷病により被つた精神的苦痛に対する慰謝料は三三〇万円と認めるのが相当である。
(九) 休業損害 六一八万二一五四円
休業損害額が六一八万二一五四円となることは、当事者間に争いがない。
(一〇) 以上(一)ないし(九)の損害合計額は、二五七一万三三〇八円となる。
2 稲垣孝に生じた死亡による損害
(一) 逸失利益 一一三九万六九四〇円
稲垣孝の平成元年度の年収額が三七四万二一〇〇円であることは当事者間に争いがなく、弁論の全趣旨によれば、稲垣孝は、本件事故により死亡しなければ、死亡時の六一歳から六七歳までの六年間、右年収額三七四万二一〇〇円の収入を得ることができたものと推認できるので、死亡による逸失利益は、生活費控除率を四〇パーセント、中間利息の控除をライプニツツ式により算定すると一一三九万六九四〇円となる。
(二) 慰謝料 二〇〇〇万円
本件に現れた諸般の事情を総合すると、稲垣孝の死亡によつて被つた精神的苦痛に対する慰謝料は、二〇〇〇万円をもつて相当と認める。なお、成立に争いのない甲第一ないし第四号証及び原告稲垣米子本人尋問の結果によれば、死亡当時、稲垣孝には、妻の原告稲垣米子と長男である原告稲垣裕志(昭和三二年六月一六日生まれ)及び長女である原告中島敦子(昭和三五年一〇月六日生まれ)の二子がおり、稲垣孝はいわゆる一家の支柱の立場にあつたことが認められるけれども、同時に右各証拠によると、長男・長女はいずれも既に成人に達し、長女は結婚して他に家庭をもち、長男は結婚はしていないものの社会人として稼働していたことが明らかであり、これらの家族の状況と、本件事故自体の態様、さらには事故の発生から死亡に至る経緯等を総合勘案するならば、稲垣孝の死亡による慰謝料は右のとおり二〇〇〇万円とするのが相当であり、これを超えるものではないと解される。
(三) 以上(一)(二)の損害合計額は、三一三九万六九四〇円となる。
3 その他の損害
(一) 原告稲垣米子の付添看護に伴う損害 五五四万六八二〇円
原告らは、原告稲垣米子の付添看護費として五五四万六八二〇円の損害を主張するところ、前記1(五)で認定したとおり、原告稲垣米子は、稲垣孝の入院期間中ほぼ毎日のように付添・介助のため通院することを余儀なくされたことが認められ、成立に争いのない甲第三二号証の一・二及び原告稲垣米子本人尋問の結果によれば、原告稲垣米子は、本件事故前、株式会社相武カントリークラブに勤務し、平成元年には三四九万六六八〇円(一日当たり九五八〇円)の収入を得ていたが、右の付添看護のため休業及び退職を余儀なくされたこと、そのため、退職日の平成二年三月一五日から稲垣孝が死亡した平成三年一〇月一五日まで五七九日分の収入相当額五五四万六八二〇円の損害を被つたことが認められる。右損害と本件事故との間には相当因果関係があると解するのが相当である。
(二) 葬儀費用 一二〇万円
稲垣孝の死亡に伴つて原告らが葬儀費用の出捐を余儀なくされたであろうことは明らかであり、本件事故と相当因果関係にある葬儀費用は原告ら主張の一二〇万円をもつて相当と認める。なお、原告らは、葬儀費用を「稲垣孝に生じた死亡による損害」とし、稲垣孝自身の損害とするかのごとくであるが、葬儀費用はこれを負担・出捐した者の損害とみるのが相当であり、原告らの主張にはそのような趣旨も含まれているものと解される。そして、弁論の全趣旨によれば、右一二〇万円は、原告らが、原告稲垣米子二分の一、原告稲垣裕志及び同中島敦子各四分の一の各相続分に応じてこれを負担・出捐したものと認めるのが相当である。したがつて、葬儀費用についての損害は、原告稲垣米子六〇万円、原告稲垣裕志及び同中島敦子各三〇万円となる。
4 以上によれば、稲垣孝の損害は五七一一万二四八円、原告稲垣米子の損害は六一四万六八二〇円、原告稲垣裕志及び同中島敦子の損害は各三〇万円である。
五 抗弁(過失相殺及び損害の填補)について
1 加害車が後部の後退灯を点滅させ断続音による警告音を発しながらバツクし、稲垣孝においてこれを認識したにしても、交差点で右折の合図を出して停止している前車が急にバツクして来るなどというのは通常予測し得る事態ではなく、稲垣孝に瞬間にこれに対応することを求めるのは些か酷というべきであるのみならず、後続車の有無やそれとの間隔など、被害車が加害車との衝突を回避し得る物理的可能性の存したことを窺わせるに足りる証拠もない。稲垣孝に衝突回避義務の懈怠があつたことと認めることはできない。
しかしながら、稲垣孝の身体的資質等をいう点は首肯すべきものを含んでいる。すなわち、同人に被告ら主張の既往症があつたことは前記三2(三)で認定したとおりであるところ、同(一)で認定した各医師の意見・診断に鑑みると、稲垣孝に二度にわたつて発症し、その死亡をもたらした脳出血は血圧の上昇によるものであり、右の既往症がそれに大きく与していることは推認に難くない。
そして、致命的血圧の上昇の契機となつた第一の脳出血発症の原因である血圧の上昇については、本件衝突の際の驚愕に加えて、稲垣孝が、憤激の余り、加害車を約一キロメートルも追跡し、事故の責任を追及する行為に及んだことが相当程度影響していると考えられるところ、同人は、右の既往症を有しており、一時は左下肢に軽度のしびれ感・運動障害まで生じたこともあつたのであるから、極端に憤激したりすれば血圧の異常な上昇をきたすであろうことは当然予測できたはずであり、そのような立場の者はこれを踏まえてことに対処するのが普通である。当て逃げされたと思つてある程度腹を立てることはやむを得ないにしても、稲垣孝が自身の右のような健康状態を考えてごく普通に冷静に対処してさえいれば、脳出血ないし死亡という不幸な結果は避けられたのではないかと思われるのである。さらに、本件衝突自体は、前記三2(二)認定のように物理的衝撃度という点ではさほどのものではなく、それが人の死を招来するなどとは社会通念上にわかに考え難いところであり、本件は極めて特異な例外的事象に属することが明らかである。
右の事情を総合すると、稲垣孝及び原告らが本件事故によつて被つた損害の全部について被告らに賠償責任を負わせるのは損害賠償法の理念に照らして公平を失するものというべきであり、民法七二二条二項の定める過失相殺の法理に基づき、右損害について被告らはその四〇パーセントの限度でこれを負担すべきものと認めるのが相当である。
右認定・説示の限度で被告らの過失相殺の主張は理由がある。
2 右1によれば、被告らに請求し得うべき稲垣孝の損害は二二八四万四〇九九円(円未満、切捨て)、原告稲垣米子の損害は二四五万八七二八円、原告稲垣裕志及び同中島敦子の損害は各一二万円であり、合計二五五四万二八二七円となる。
なお、右1の過失相殺の法理は、稲垣孝の損害についてだけではなく、原告ら固有の損害についてもこれを適用すべきことはいうまでもない。
3 そこで、損害の填補について検討するに、稲垣孝ないし原告らが、本件事故による損害について、労災保険法に基づく給付として合計一七七六万五八一二円(なお、成立に争いのない乙第九号証によると、この他に、装具費について一二万八三〇円が支給されていることが認められるが、右装具費は損害として認定していないので、右の支給は考慮しないこととする。)、自賠責保険金として一二九六万五三九三円、合計三〇七三万一二〇五円の支払を受けていることは右乙第九号証及び原告らの自認するところから明らかである。そうすると、稲垣孝及び原告らの右2の認定の損害合計二五五四万二八二七円は既にすべて填補されていることになる。なお、右の支払は、療養給付あるいは休業給付等、損害の種別に対応してなされていることが窺われるが、損害が填補されているか否かを判断する場面において右の種別に拘束されるべき合理的理由は存しないと解される。
4 したがつて、被告らの抗弁は理由があることになる。
六 結論
以上の次第であるから、原告らの本訴請求は、その余の点について検討するまでもなくいずれも理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 根本眞 近藤ルミ子 河村俊哉)